Hans Wehrのアラビア語辞書について知っておいたほうが良いこと

 ハンスヴェーアという愛称で呼ばれているこの亜英辞書「現代文語アラビア語辞典」は、日本中のみならずおそらく世界中のアラビア語学習者に使われていると言っても過言ではないほど広く普及した辞書です。日本で出版されている英和辞書などの品質と比べると、決して「最高の」辞書ではありませんが、しかしこれを超えるアラビア語辞書は存在しません。この辞書が無ければアラビア語の学習は不可能ですし、現代アラビア語のみならず古典の語彙もある程度カバーできます。

 

Arabic English Dictionary of Modern Written Arabic

Arabic English Dictionary of Modern Written Arabic

 

 

優れた辞書ではあるものの若干クセがあるので、辞書を使う前に知っておいたほうが良いことをまとめました。

 

おそらく、ここに書かれていることは授業などでアラビア語を習い辞書の引き方を教われば、当然知っていることなのかもしれません。私は、初級文法を独習し、中級文法と読解は週に1回、とある先生のところへ通って習っていたので、辞書はほぼ家での予習の時しか使わず、いろいろとこの辞書の使い方には苦労しました。その時の経験をまとめておきます。
 
対象の読者は、アラビア語の初等文法を学習し終わり、文章読解を始める程度のアラビア語学習者です。(語根や派生型などは知っているものとします)

辞書について

この辞書を編集したハンス・ヴェーアはドイツ人のアラブ研究者であり、もともと1952年にアラビア語-ドイツ語の辞書として編集されました。後に、アメリカ人のJ ミルトン・コーアンによってドイツ語の訳語を英語に翻訳した辞書が発行されました。 (詳細はWikipedia参照)
 
ドイツ語原書では5版まで刊行されていますが、現在、普通の手段で入手できるものは、原書第4版の英訳版です。(ほとんど収録語数が変わらず、安価でコンパクトな第3版も存在しますが、2017年現在では古書としてもほとんど流通していません。) 第3版は1961年出版、第4版は1979年出版です。また、価格は4〜5千円程度で販売されていましたが、後述する通り現在では価格が上昇しています。
 

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 図:左 第4版、右 第3版

辞書の入手について

版元のSLS社が倒産したらしく、最近(2017年6月現在)ではAmazonで新品・中古とも1万円前後に価格が値上りしています。また、書店等に流通している在庫もかなり枯渇しているようです。穂高書店さん情報によると、版権が別の出版社に譲渡され新版の出版準備が進んでいるということですので、急ぎで必要でなければしばらく待ってみても良いかと思います。
 
アマゾンのオンデマンドプリント版でも入手できるようですが、版数などが記載されておらず若干不安です。もしお持ちの方が居れば情報をいただけると助かります。

紙質

私が所持しているSLS社版の第4版を元にして記載します。この辞書は、日本の辞書のようなビニール装・革装ではなく、完全なペーパーバックの辞書です。紙質はかなり低く、耐久性は最悪です。毎日持ち歩いていると半年も経たずボロボロになります。ただし、辞書に一番ダメージが掛かるのは、実は開いて引くときではなくカバン等に入れて運搬している時です。そのため、書籍用の保護シールを貼り、カバンなどに入れる際には、厚紙で作ったカバーを掛けたり、リボン状の紐で縛ってねじれたり開いたりすることを防ぐだけで結構長持ちします。

辞書配列について

أ ب ت ث ج ح خ د ذ ر ز س ش ص ض ط ظ ع غ ف ق ك ل م ن ه و ي

 

辞書の配列は、アラビア語の語根のアルファベット順に並んでいます。そのため当然、アラビア文字の並び順を暗記している必要があります。(私はアラビア文字は覚えても順番は無頓着だったため、いざ読解を始めて辞書を引く段階になって苦労しました。)
 
ハムザ(ء)はアラビア語のアルファベットには含まれませんが、ハムザは動詞の語根になります。その場合、ハムザはバー(ب) よりも先に配置されます。しかし、語根に還元されない外来語はアラビア文字の順に配列されています。この場合、アリフ(ا) は最初の文字として扱われます。そして、外来語でアリフを含む単語と、アラビア語の語根でハムザを含む語が同じページに掲載される場合、どちらが先に来るかの一致した基準がありません。

語義について

まず、語義に記された○の記号は、新語(特に技術的用語)、□は口語または地域特有の語義を表しています。
 
ただし、この辞書が編集されたのはおよそ40年前であるため、当然ながらそれ以後の技術開発には追い付いていません。
 
たとえば、شبكةやموقع と言った単語を引くとよく分かります。原義は、それぞれ「網」、「場所」ですが、現在では「ワールドワイドウェブ」、「ホームページ(ウェブサイト)」という意味でよく使われます。(テロ事件の声明文に関する報道などでよく見かけますね。) 大抵の場合、英語の意味から推測できることも多いですが、意味が分からない場合はより新しい辞書を引く必要があります。
 
語義の並べ方にはかなり疑問があります。(これは、ドイツ語から英語の訳を行なったコーアンが、アラビア語に通じていなかったためと言われています。) 
 
通常、辞書の見出し語内の語義配列は、利用頻度が高い順、またはその語の根本的、本質的な意味の順、または歴史的に古い意味の順などで並べられることが多いですが、この辞書はそのどれにも当てはまりません。
 
たとえば、درسを引いてみると、一番最初の語義は、to wipe out, blot out (消去する、削除する) となっており、一般的な意味である、勉強する、学習する (to study, learn) はその次に来ています。
そのため、「辞書を引いて最初の語義だけを確認する」という使い方をすると、文章の解釈を誤る可能性があります。大きな意味の区切りではセミコロンの単位で分割されており、コロンで区切られた語が同義語を表しています。ただし、文脈に沿った意味が掲載されているとは限らないため、「複数の英単語を読み、単語の集合が表現しようとしている意味を捉える」という作業が必要になります。また、ほとんど例文が記載されていないため、意味を取り違えてしまうことが多々あります。読解中に辞書を引いて、文章の意味が取れなくなった場合は、「別の語義があるのではないか」と考えることが必要になります。
 
分詞、動名詞、場所・器具名詞など、文法によって意味が自動的に推測できる語は掲載されていません。辞書に掲載されていないことを呪う前に「勉強の足りない自分を呪う *1」必要があります。
 

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動詞の派生型原型は記載されておらず、ローマ数字のみで表されています。そのため、派生型の形と数(第○型)を覚えていなければ辞書を引くことすらできません。派生型は数字も含めて覚えましょう。
ただし、派生型の動名詞については、ローマ数字は無く単語がそのまま記載されています。やはり、派生型の動名詞の形についても記憶する必要があります。(やはり覚えましょう)
正直なところ、動詞派生型の原型と動名詞のそれぞれで記載方法が異なるのは、かなり不親切であると思います。
 

まとめ

この辞書についていろいろと文句を述べてきましたが、カバーする語彙の広さと深さではやはり匹敵するものの無い辞書だと思います。
 
でも、そろそろ誰かが原書第5版の翻訳と、最新の語彙と研究成果とコーパスを取り入れた、使い勝手の良い辞書を作ってほしい…
 

参考文献

*1:世界のことば・辞書の辞典 アジア編 P.340